江戸通り雑感(第6回)

通りの顔(南千住〜清川)


『江戸通り』の終端
南千住を「通称」『江戸通り』の終端としたのには、歴史的な謂れがある訳ではない。筆者の勝手な思い込みからである。その理由は、
・昔『江戸通り』に都電(22番系統)が走っており、その終点が南千住であった。
・都電の終点のすぐ先には、鉄道貨車用の隅田川操作場があり、その線路が『江戸通り』を分断していた。その踏切が、『江戸通り』の終端をイメージさせた。
・すぐ傍には「小塚原」があって、子供にとって地の果て、道の果てのような印象であった。
これらの情景が『江戸通り』をここで終わらせる事になったものと思う。

都電の終点
終点の南千住駅を越えると、線路は左折して車庫に入る。また、そこには都電の事務所と比較的大きな都電の車庫があった。東京から都電が次々と消えていった後期に、この系統も消える運命となった。
子供のころ都電に乗ると必ず運転席の右手すぐ後ろに陣取った。運転席の左側が昇降口となっているため、そこに立つことは出来ない。走り出すと都電は体を左右させながら勢いよく走り、運転席越しに見える景色が飛ぶように後ろへ流れていくのが楽しかった。子供心には7〜80km位での感覚であるが実際は40km未満である。
この路線(22系統)は、私の言う『江戸通り』をそのままのルートで日本橋へ向かう。ただこの路線は日本橋が折り返し点ではなく、その先の新橋までとなっていた。廃止となる最後の日には、電飾され着飾った花電車が走り、銀座通りを走るその姿が当時の一般新聞にも大きく載って別れを惜しんだ。
現在は、都電に代わって都バスが運行されている。ルート(東42)は、都電時代とは少し変わり、日本橋を過ぎてから東京駅南八重洲口までとなった。南千住の都電の車庫であった場所は、そのまま都バスの車庫として使われている。また、建物も従業員寮の建物を含め立派なものになっている。
現在でも、この路線は都バスの数少ないドル箱である。

南千住の都バス(昔都電)車庫(2008年9月15日撮影)

江戸通り終端にあるバス始発駅(2008年9月15日撮影)

隅田川操作場

 現在でこそ、車道はこの線路の下をくぐれるようになっているが、随分長い間踏切のままであった。道が閉ざされていたので、ここが『江戸通り』の終点というイメージを増幅させた。

踏切は、JR常磐線が上野をでて三河島駅までほぼ平行に走る貨物専用線で、南千住駅へ向かう間にそれまで高架であった専用線が地上と同じ高さに下がってきたために『江戸通り』と交差するために設けられていた。
踏切部分は操作場の一部となっているため、線路が4、5本通っている。
この踏切は、他の一般的な踏切と大きく異なる点があった。
通常、踏切は列車の通過時にのみ遮断機が下りるわけであるが、ここでは列車の編成を行うのにこの踏切のある辺りまで機関車が貨車を引いてきた。その度に踏切は閉ざされた。つまり、かなりの頻度で遮断機が下りることになる。
さらに、編成作業であるので貨車を何両か連結した列車がこの付近で止まり、線路の切替を待っている。切替が行われると列車はようやく操作場の奥へと戻っていく。
また、到着した貨物列車の切り離し作業の場合は、この付近から若干の勾配と機関車の勢いを使って貨車を数両ずつ各線路へと切り離して配っていった。このような作業を踏切内で行うため、その結果として踏切の閉じている時間が長くなる。貨車の編成作業をイメージできない方には、判り難いかも知れない。

この踏切の脇に人の往来のみが出来る鉄製の歩道橋があった。
通勤時間帯、等で急ぐ人のためのものである。しかし、子供の筆者にとっては大きな機関車をすぐ間近で見られる至福の時であった。これを見るため歩道橋のその列車の来る真上に陣取り、腹這いの姿勢で待った。腹這いになるには理由があった。その当時は、貨車編成用の機関車に、まだ蒸気機関車が使われていたのである。その煙突から出る煙に当たりたくて腹這いになり、低い姿勢で待機したのである。
ここで遊んで家に帰った時は、母にすぐ見破られた。当然であった。顔が機関車の煙で煤け、真っ黒になっていたからである。

隅田川操作場(2008年9月15日撮影)

泪橋交差点

都バス南千住駅から始点の日本橋方向に向かって歩き出すと、道幅が比較的広いせいかまとまりのない町の印象のまま、100m程で明治通りと交差する泪橋交差点となる。明治通りを左(南千住のほうから見て)へ1km程行くと、隅田川に架かる白髭橋に至る。

あの有名なボクシング漫画の「あしたのジョー」に出てくる丹下ボクシングジムは、泪橋交差点から明治通りを隅田川方面に進み、白髭橋の袂にあったことになっている。
筆者も「あしたのジョー」に熱中した方なので、丹下ボクシングジムの所在地設定が自宅から比較的近くの場所だったので嬉しくもあり、反発も感じた。漫画の中でのジム近辺は、すでに当時より古い印象で描かれていたための反発心もあったのだと思う。しかし、町の雰囲気はとてもうまく捉えていた。
ジムのオーナーであり、トレーナーでありコーチでもあった丹下氏を描いた雰囲気は、この町にぴったりはまっていた。さすが「ちばてつや」氏は観察力が鋭い。

泪橋から左へ1km弱の白髭橋(2008年9月15日撮影)

同じく泪橋交差点から白髭橋方向へ向かう橋より手前の左手、すなわち隅田川操作場の近辺に東京ガスがある。
現在、東京ガスのガス貯蔵タンクはすべて球形であるが、昔の形は違っていた。ガス・タンクは円筒形だったのである。タンクは円筒形をそのまま立てた形になっていて、ガスの貯蔵量によってその高さが変わった。食事の準備で消費の多い昼過ぎや夕方直後は、タンクの背丈は低くぺしゃんこになる。その後ガスの生産量が消費量を上回るのでジワジワとタンクの背が高くなる、という繰り返しであった。
筆者の子供の頃、その円筒形のガスタンクが3つほどあったように記憶している。多分昭和30年代の初めの頃、そのガスタンクの1つが爆発した。大音響と共に半径500m位までの家の窓ガラスが爆発の振動で壊れた。確か夕方だったように記憶している。空が真っ赤になり、その後少しして消防車のサイレンが延々と続いて聞こえていた。数十台の消防車が消火に当った。
あの大音響、振動、空を焦がす火災、鳴り止まぬ消防車のサイレンは、戦争を知らない世代なもので筆者にも強く記憶に刻まれ忘れ得ぬものになっている。
今は、ガスタンクの爆発の話がマスコミに報道されるような事態はない。タンクの強度の面から球形になり、安全性も格段に進歩した。

明治通り沿いのガスタンク(2008年9月15日撮影)

この泪橋交差点までが荒川区である。交差点を越えると、そこは台東区となる。

ドヤ街

泪橋交差点で明治通りを過ぎ東浅草2丁目の交差点の辺りまでが典型的なドヤ街となる。この間の中間位の場所で進行方向に向かって左手に大きな交番がある。「山谷交番」である。通りの左右の奥100m位まで労務者用の宿泊施設が多数ある。

ドヤ街の「ドヤ」とは、宿泊所を示す「宿屋(やどや)」の「や」の字を除いた「どや」から来ている。いつ頃から宿が集まるようになったのか知らないが、筆者の子供の昭和30年頃には、すでに形成されていた。
「宿屋」と言っても温泉街の「宿屋」とは、まるでイメージが異なる。平たく言うと、日雇い労働者(今言われる季節労働者ともニュアンスが違う)のための格安宿泊施設である。聞いた話では、ごく普通の部屋は複数の人が相部屋として使い、フロ、トイレは共用となっている。労働者はここを根城として、ここから建設現場、工事現場へと出勤して行った。
今はどうなっているか知らないが、彼らが仕事を得る方法は皆さんが考える方法とは異なっている。朝早く身支度をして(もちろん、すぐ現場仕事が出来るような格好)この大通りまで出てくる。すると空のトラックが来て、呼び込みが通りで仕事を探している労務者に向かって仕事の内容と賃金を聞こえるように言う。その仕事が出来そうな労務者が呼び込みの所に行き「やりたい」意思表示をする。呼び込みの男は近づいた労務者をじろりと一瞥し、OKなら労務者はトラックの荷台に乗る。
募集人数が集まると、トラックは黒鉛を吐きながら現場へと向かう。このようなトラックが、次から次へと来て通りのあちこちに止まり人集めをしている。このようにして、労務者は仕事を得る。雨の日には仕事が著しく減る。その日は、必然的に労務者は仕事にあぶれることになる。
このようなリクルート活動が、朝8時過ぎまで行われていた。通りに出て仕事を待っている労務者を「立ちんぼ」と呼んでいた。これがいつしか、仕事にあふれた人の事を指すように変わった気がする。
もちろん、正規の職業安定所もある。

呼び込みの男は大半が暴力団(当時は「やくざ」という言い方が一般的)の下っ端であると聞いていた。このようにして集められる仕事の中には、うまい事を言ってきつい現場へ労働者を連れ込み、部屋付きで拘束したケースもあったようだ。つまり、仕事がきついため逃げ出す労務者がいるので、逃げ出せないように監視付きの宿泊施設に入れ作業をさせたのである。これがいわゆる「たこ部屋」と言われる施設である。この話を聞いた時、子供心に大変だなと思った。

労務者が多くいる町なので、そのような人達向けの食堂、立飲み屋、衣料品店なども多くあった。衣料品店の軒先には、片方だけの靴下も売っていたのを覚えている。
この町にいる労務者には、いろいろな顔があった。
季節労務者として東北地方の農村から冬場だけ働きに出てくる人。人生に失敗して流れ着いた人。生活していた町にいるのが嫌になってきた人。犯罪を行っての逃亡者。隠遁生活を求めてきた人。肩書き抜きで人と人とが触れ合う仲間が欲しくて、この町から抜け出さない人。等々、多様な顔があった。ただ、聞いていた話だがこの町は犯罪逃亡者には適さないようで、逃げ込んでもすぐ捕まるとの事であった。

一方地元の人達はどうかと言うと、労務者を相手にした宿などの商売をしている人、地元の人を対象として商人、職人、勤め人と多様であったが、いわゆる下町人の気質の人達であった。

労務者と地元民の間にはトラブルは少なかった。
また、不思議に思われる方が多いと思うが、地元民に対する労務者の犯罪は少なかったのを記憶している、


山谷という町名

現在、『江戸通り』のこの辺りは「清川地区」と呼ばれる。しかし、元々は「山谷」という町名であり、年配の方にはこの町名の方がピンとくるのではないかと思う。そして何より「山谷」という地名のほうが由緒ある地名なのである。
江戸時代から吉原の遊郭地区と隅田川を結ぶ短い掘割は「山谷掘」と呼ばれ、古い文献や落語などに出てくる由緒ある名前である。
しかし、悪い印象のほうで言えば、一時期ドヤ街として西の「釜が崎」、東の「山谷」として双璧をなし、都道府県名なしで通じる数少ない地名のひとつであった。
昭和30年代から40年代半ばまで、ここの労務者がよく暴動を起こした。原因はその時々によって異なった。店員の労務者に対する態度が悪かった、とか単なる労務者同士の喧嘩であったりと些細な事が多かったように思う。それが引き金になって日頃の鬱積したものを吐き出すかのように簡単に暴動になった。最終的な標的は、この地区の中心的な位置にある「山谷交番」、通称「マンモス交番」であった。そのたびに百名位の機動隊が出て、暴徒を鎮圧する。もっとも盛んな頃は、この暴動騒ぎが山谷の夏の「風物詩」のように毎年繰り広げられた。冬は寒いので、このような屋外の「催し物??!!」には向かなかったようだ。
30年代の終り頃だったと思うが、東京では地名変更が大々的に行われた。この時、由緒ある町名の多くが地図上から消えた。山谷の町名も、そのとき消えた。理由は簡単で、何度も暴動があったので町名の印象が悪かったためである。山谷は、この時『江戸通り』を挟んで隣の町名に分割・吸収された。山谷町の半分が筆者の住んでいた「清川」に吸収された(町民が望んでの吸収ではない)。それ以降、暴動があると報道が「山谷地区」の表現から「清川地区」になり、若干肩身の狭い思いをした記憶がある。

この町の昔の事やエピソードを書いていると長くなるので、この辺で終りにし現在の姿を簡単に紹介する。
長引く不景気は、この町にも大きな影響を与えている。
宿泊する労務者の数が大幅に減ったのである。理由は、いくつかある。ここに留まって仕事を探そうにも、仕事が激減して探せる当てがなくなったのでどこかに流れた。また何とか仕事にありつけるにしても稼働日数が減ったので、生活費を切り詰めるため宿泊施設から出て野宿やブルーテントになった。
したがって、この町に労務者の数が激減した。車でこの『江戸通り』を通っても、通りから見える労務者の数は明らかに減っているように思える。
現在の日本のどこでも起こっていることがこの町のも起きていて、労務者相手の宿の倒産も起きている。
一方、侍して死を待つのではなく新たなビジネスモデルで変身している宿もある。内装を変え、ホームページを立ち上げ、多くのサイトにリンクを張って、安価なビジネスホテルとして頑張っているところもある。
これからどのようにこの町が変わっていくのか、興味津々である。


吉原

 吉原を取り上げた理由は、吉原の衰退が浅草の衰退を引き起こしたからである。
東浅草2丁目の交差点を日本橋方面に向かって右に行くと、4、5分で吉原地区の入口にあたる「吉原大門」の交差点となる。「大門」は「おおもん」と読む。芝地区にある「大門」は同じ漢字だが「だいもん」と読む。残念ながら現在は「吉原大門」より「芝大門」の方が認知度が高いので「大門」を「だいもん」と読む方が多いのも事実であろう。
筆者の家は東浅草2丁目の交差点を大門方向とは逆の左にあったが、それでも、筆者の家から大門まで、徒歩で7,8分であった。昭和30年代の初めに「売春防止法」が施行され、そのため吉原地区の灯が消えた。それがどういう意味を持つのか、小学生であった筆者に判るはずもなかった。
しかし、この法律施行が吉原を消滅させ、しいては浅草の繁華街としての地盤を大きく沈下させる原因となった。
吉原は下町を語る上でやはり欠かせない存在だと思うので、別の機会に吉原を紹介したいと思う。

経路図(南千住〜清川

注1:本文は2003年5月5日作成
注2:本文と写真は日付に差があり

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